ヒストリー

2005年、25歳の時、インドへ旅をし、「築地で働きたい」と漠然と感じ、築地で鮭を専門に58年、「つきじ近富」に入社。タンタンと鮭を売る日々。築地では主に販売と在庫管理を担当。場所柄、やはり「年末」が大忙しで、初めは年末の短期アルバイトとして入る。築地には「場内」「場外」がある事を初めて知る。そこで見たターレーに乗った親父の顔に、インドで見たトラックの運転手の顔が交錯する。何か「人間」を見た気がした。この時、人間に興味があり、「人の顔」ばっかり描いていた。その忙しさ、潔さに圧倒され、築地にはまり、年明けからもアルバイトとして残る。2年後に、会社の上司でもあり20年勤め上げた人が奥様の都合で中国へ行ってしまい、入れ替わるように社員となる。まだこの時はただの「魚」だった「鮭」が、こんなにも愛しくなるとは思ってもいなかった。


木工家になりたかった為、築地が休みの日曜日、指物教室に通う。指物の魅力に取り付かれ、自宅でも制作し始め、部屋がカンナくずだらけ。一年位たった頃、教室のやり方に納得いかなくなってきた為、徐々に行かなくなる。それでも指物への情熱は衰えていなかった。作業場所を家に移す。いい道具が欲しくて、ある日友人を連れて「大江戸骨董市」へ出かける。もちろん目当ては「古道具」。だがその日は中々良いものが見つからず、諦めかけてブラブラしていると、そこにあったあるものに目を奪われる。それは木彫りの「鮭」。新潟村上などで良く目にする軒に吊るされている「塩引鮭」を彷彿させるとてもリアルな原寸大の木彫りの鮭。熊が鮭を咥えた土産物の木彫りはよく目にしていたが、まさかこんなモノがあるとは。こんなかっこいいものがあったとは。こんな可能性があったとは。ただただ驚き、心奪われ、2500円で購入。その後、通っていた指物教室も辞め、「鮭」に没頭する事となる。


まず興味を持ったのはサケ科の仲間たち。「鮭」と一言で言っても、色々種類がある。サケ科魚類には、サケ属、イワナ属、太平洋サケ属など11属約66種にも及ぶ仲間がいる。その中で、「ヤマメ」や「ニジマス」といった良く耳にする魚も入っていることに驚く。そして「アブラビレ」というサケ科独特のヒレがあることを知る。鮭と言えば切り身になって陳列してある鮭。年越し魚としての鮭、弁当屋のちょっとパサパサした鮭。回転寿司で脂のコテコテに乗ったクルクル回っている鮭。熊にくわえられた単なる餌としての鮭。そして、ただの「魚」として平均以上にうまいという事実だけ。でもこの魚、そう単純ではなかった。その時、自分の名前に鮭の「圭」が入っていることに気付く。僕の人生をかけても良いと思ったほど、深く、そして美しい。


築地で販売していたのは「シロザケ」と「ベニザケ」「マスノスケ(キングサーモン)」の3種類で、「シロザケ」に関しては「銀毛(ギンケ)」「時鮭」「鮭児」を販売していた。「銀毛(ギンケ)」は「秋味」「新巻鮭」等とも呼ばれ、日本人にとって、一番馴染みのある鮭。産卵前の川に遡上する前の状態。「時鮭」はロシア起源のシロザケで、回遊途中に北海道沿岸の定置網に掛かる2〜3年魚。「鮭児」は説明不要。「幻の鮭」。みんな銀色に輝き、脂も乗りとてもうまい。しかし、鮭は生まれた川を遡上し、産卵期に入ると、銀色だった魚体が「婚姻色」に染まる。シロザケ、マスノスケは緑や赤の模様が縦に入り「ブナの木」のような色になり、ベニザケは体が真っ赤に染まる。オスは上あごが伸び「鼻曲がり」となり、真っ赤な背中が盛り上がる。他にも「ギンザケ」は腹の部分が赤くなり、顔や背は黒くなる。婚姻色の出た「サケ」はもう何とも言えないかっこよさ、美しさである。個人的には婚姻色の出た「ギンザケ」のオスが好みです。この時くらいからサケのアート性に気付き、妄想で鮭を描き始める。


「シロザケ」「ベニザケ」「マスノスケ(キングサーモン)」「ギンザケ」の他にも、サケ科魚類には、「ヤマメ」「ニジマス」「イワナ」等も入り、「回遊型」、「陸封型」、「降海型」、「河川残留型」、「河川型」、「湖沼型」が存在することを知り、それぞれに和名、英名、学名があり、養殖出来る種、出来ない種、産卵後死んでしまうサケ科魚類の中にも、産卵しても死なない「多回産卵」する種もいる。「ヤマメ」「ニジマス」には陸封型と降海型の2種類がいて、降海型は海に降りる事で、豊富な栄養を海で蓄え、川に残る陸封型より体が大きくなる。「ヤマメ」は海に降りると「サクラマス」となり、「ニジマス」は海に降りると「スチールヘッド」となる。もう身震いする話である。どんな世界がそこにはあるのか。知るべきことが多過ぎて、希望を抱きつつ、途方に暮れる。


2009年12月12日、九州に里帰りした際に、行こうと決めていた「鮭神社」にお参りに行く。奇しくも翌日13日は「鮭祭り」だったのだが、飛行機の都合で見ることが出来なかった。この神社の事は、倉掛晴美さん著「サケよふるさとの川へ」で知る。建立は西暦769年。その昔、鮭は九州にも遡上していたという動かぬ証拠である。そして、日本において鮭の記載のある一番古い書物は、偶然にも僕の生まれ故郷である熊本の「肥後国風土記」であるという驚き。現在より海水温が2度ほど低かったとされるため、鮭は遡上していたと思われる。現在では、日本海側の南限が石川県で太平洋側の南限は茨城県と言われているが、鮭神社のある福岡県嘉穂郡「遠賀川」には人工孵化した鮭が毎年遡上しているし、太平洋側でも、毎年横浜の川に鮭が遡上したというニュースを聞く。結局は川の水温と、キレイさによるんだと思う。もちろん、水温だけは人間の手ではどうしようも無いことは百も承知だが、いつでも戻ってこれる程川がキレイであれば、日本全国全ての川が鮭のふるさととなる事は不可能では無いのではないだろうか等と考え始める。


鮭の栄養価については言うまでも無いだろうが、誰が言ったか、鮭は「泳ぐ健康カプセル」という名前があるらしい。だが、その名の通り、鮭には大変豊富な栄養素が含まれている。例えば、最近良く耳にするDHA(ドコサヘキサエン酸)やEPA(エンコサペンタエン酸)などや、今、その効果が認められてきている「アスタキサンチン」と言われる色素成分。僕は、その「アスタキサンチン」に特に注目していて、何故、鮭にアスタキサンチンが豊富に含まれているのか、ここに鮭に惚れ直した理由がある。このアスタキサンチンは、カルテノイド系色素の一つで、人参でお馴染みのベータカロチン等の仲間である。カニやエビにも含まれる加熱すると赤くなる性質を持つ色素成分で特に鮭に豊富に含まれる。その効果については、およそ病気の9割に関与していると言われる「活性酸素」を消去すると言われている。そして、あらゆる免疫力の低下を抑える等、まさに「泳ぐ健康カプセル」なのである。では何故鮭にだけアスタキサンチンが豊富に含まれるのか。それはまだ憶測であり、完全に解明されていない謎の部分ではあるのだが、ある説に心を動かされたのである。「鮭は川の上流で孵化し、数ヶ月過ごした後、海へ降海し、数年後再び生まれた川へ戻って産卵する。川の中は海の中に比べ卵を襲う敵が少ない反面、太陽の紫外線が強く差し込む為、紫外線によって発生する活性酸素で卵が被害を受ける危険性がある。その為海洋生活中に抗酸化作用の強い「アスタキサンチン」を貯め込み、卵に移行させて守っているのではないか。(サケを食べれば若返る 鈴木平光著)」まさに母の愛なんです。まだこの説は有力というだけなんだが、説得力があり、納得できた。


2010年4月1日より、ブログ「I LOVE SALMON」開設。
「鮭」についての記述が中心。


色々考えたり、調べたりしていると、色んな問題点も目にするようになる。最近、人工孵化事業に対する考え方が変わってきている。人工孵化事業とは、毎年決まった数の稚魚を放流し、毎年安定した回帰を目指す事業の事で、自然産卵では孵化率が著しく低下してしまうため、人工孵化によって稚魚になるまで人間が育て放流することにより、孵化率、母川回帰率が上昇し、水産資源としても安定した漁獲量が期待できると、非常にサケの為になっていると考えていた。しかし、「ヤマメはオスしかいない」という事について色々インターネットで調べていたとき偶然たどり着いたサイトで、人工孵化事業、ダム建設に対する否定的な意見と、衝撃的な写真が掲載されていて、ショックを受けた。そこは写真家稗田一俊さんのサイトで、そこには、森の栄養は川に乗って海へ流れ、鮭が川に遡上することにより海から豊富な栄養が森、川にもたらされ、それにより「栄養の循環」が成り立つという「自然のサイクル」について書かれていた。そして、その「自然のサイクル」が、人工孵化事業によって一部破壊されていると言うことだった。例えば、Aの川において人工孵化サケの増殖のため、B、Cの川から鮭をもらって人工孵化させ、放流する。Aの川の遡上時期は11月。でも、B川の鮭は遡上時期が9月、C川の鮭は遡上時期が10月の為、Aの川に普段サクラマスが遡上する9〜10月に遡上するようになる。そこで、サクラマスとシロザケの交配が問題になり、さらに、オジロワシ、オオワシが飛来する11月にサケが遡上しなくなり、栄養の循環が途絶える。DNAレベルの攪乱や生態系(食物連鎖)の攪乱が起きているという事実を初めて知る。サクラマスとシロザケが交配する写真も掲載されていた。自分の無知さを恥じ、感謝のメールを稗田さんに送る。2度ほど返信頂き、大変勉強になる。鮭の素晴らしさをどうすれば伝えられるか、考え直すきっかけとなった。


築地近富を2010年7月31日付けで円満退社し、タバコも止め、北海道へ「鮭をめぐる旅」をする事を決める。とにかく「泳いでいる鮭」を見たかった。8月16日、フェリーの運賃が安くなってから出発することにした。サケをどういう形で表現するか悩む。出発寸前、サケ専門デザイン事務所を立ち上げようと何故か思いつき、急いで名刺を作成。それと、何点か書いた絵を持って行くことに。到着して2日目、千歳サケのふるさと館にて初めての泳ぐ鮭を見る。美しいブナ化したメスだった。僕とずっと目が合っていた。待っていてくれたかのように。その後北上し、時計回りに羅臼まで行くものの、何も得られず、途方に暮れかけていたときに訪れた「標津サーモン科学館」にて、嫁が閃く。その時本当の意味で「サケデザイン研究所」本格始動。標津、千歳にある3箇所のサケ科学館にご挨拶して、急遽東京へ戻る。そこからサケデザイン研究所第一弾作品手ぬぐい「夫婦鮭」完成。これを軸に営業開始。公式ホームページ開設 http://www.sakedesignlab.com


2010年は、カナダにおいて、紅鮭の遡上個体数が多くなる4年に1度の「ビッグラン」の年で、どうしても見たいと、嫁に懇願する。気持ちが通じ、4泊のカナダ紅鮭遡上観察旅行へ。バンクーバーから約420キロある、とにかく一番有名なポイント「アダムスリバー」を目指し、車を走らせる。すごい数の紅鮭の遡上だった。すごい数の紅鮭の死体だった。すごい匂いだった。彼らはこんな所まで、流れに逆らい、「産卵」という目的だけのために力を蓄え、生きている。見といて良かった。これで築地を退社し、とにかく見たかったもの全て見た。これからはそれを吐き出す作業に取り掛かる。


カナダから帰国後は、新製品の開発の為、都内をうろつく。途中、地図を確認する為、路肩に車を止め日暮里までの道を確認。その時、車を止めた目の前に、虹鱒のカービングが施された革のベンチが置いてある。何の店だと目を凝らしてみると、「つるや釣具店」の文字。これが、最初の「つるや釣具店」との出会いだった。 運命しか感じなかった為、店主にご挨拶をしに店内へ。そこでようやくフライフィッシングのお店なんだと知る。フライフィッシング自体の知識はほとんど無く、「財と時間のある人だけの高貴な釣り」だというイメージしかない。やはり店内見渡す限り、素人目にも「本物」だと分かるような完成度の高いものばかり。そりゃ、お金かかるわと納得。むしろもっと高くても良いんじゃないかとすら思う。この日は挨拶だけで失礼し、後日絵を見ていただくことに。


数週間後、再び「つるや釣具店」に。今回は絵を持ってお伺いした。この世界に居る人たちは、どちらかというと、リアルで、写実的で、今にもキャストしたフライに飛び掛ってくるかのような、そんな生々しさと、リアルな愛らしさが好まれるのではないかと感じた。僕のような魚だか何だか分からない中途半端なものは受け入れてもらえないかもしれないと、思っていた矢先、ある一人のお客さんが、「あれに出してあげればいじゃん」と。「あれ」とはなんなんだろうと、お伺いすると、毎年、渓流解禁日前の2月にいろんな作家さんが集まる、「ハンドクラフト展」なるものを開催されているらしく、それに出してあげればいいじゃんと言うことだった。思わぬお話に、二つ返事で出させていただくことになった。早速帰って新作作りに没頭する。


2011年2月4、5、6日、浅草都立産業貿易センターにて「第22回 つるや釣具店 ハンドクラフト展」が開催。会場に足を踏み入れた瞬間の緊張感は今でも忘れない。なんだかすごいところに来てしまったんではないかといった不安と、ここで果たして僕の作ったものが受け入れられるのかという何もしていないのに敗北感。それくらい顔の怖いおじさん、いや、筋の通った方々が大勢この日を迎えていた。でも、みんな久しぶりの再会なのか、顔がほころんでいる。そんな中の3日間。あらゆる方とご挨拶し、多くの方にご興味を持っていただき、非常に有意義な3日間だった。詳しくはブログにて。


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